僕がはじめてアルバイトをしたのは、小学4年のときです。
毎朝5時に起きて、新聞配達をしてました。なかなか起きない中3の兄を起こし、古町(こまち)の専売店まで行き、新聞を前かごと後部にゴム紐で固定します。正確には、僕は専売店の近くの踏切りで、兄が新聞を積んで来るのを待ってました。
アルバイトをしていたのは兄で、兄の配達分、270部を170と100に分け、僕は約100部を配達してました。
数週間してからだったでしょうか?専売店の方が、その様子に気がついたようで、
「2人でおいで」と言ってくれました。
冬の朝は、まだ夜のように真っ暗で、路地に入るの恐ろしく、犬がいるところに配達するのは心の底から嫌でした。
雨の日も、雪の日も大嫌いでした。
雪で自転車をひっくり返し、全ての新聞を濡らしてしまったこともありました。
お正月の新聞は、紙面や広告が厚すぎて、何度も専売店への往復をしながら配達しました。
大変さもありましたが、小学4年生にして、僕は月に1万円のお小遣いを手に入れてました!
ただ、新聞配達をしてたのには理由がありました。この頃、同時期に、父が再婚し、姉、妹、新しいお母さんが我が家にやってきました。父、義母、兄、義姉、僕、義妹、(後に妹も生まれる)。我が家は、7人家族になりました。
我が家は、裕福な方ではなく、僕がサッカーを続ける為には、自分でスパイクを買う必要がありました。サッカーソックス、ボール、短パン、ユニフォームも新聞配達のお金から捻出していました。父から、いつもこう言われてました。
「としろう、お前にしてあげたいんやけど、そしたら、兄妹みんなにしてあげんといかんなる」
僕も親の事情は理解していたので、兄と2人で自分達で稼ぐ道を模索しました。そして新聞配達を2人でしよう。ということになりました。
今も、その道を通ると当時のことを思い出します。宮西、六軒屋、衣山あたりを配達してました。
小学生の全国大会(よみうりランド)、東京に行く当日も、もちろん新聞配達をしてました。気持ちも高揚していたんだと思いますが、配達を終えたあと、兄と「自転車で追いかけっ子」になり、僕は砂混じりのアスファルトで転倒し、手首から肩にかけて、酷い怪我(擦り傷)をしてしまいました。
休日だったので、救急病院に行き、処置をしてもらいました。ドクターストップはかからなかったので、ほっと胸をなでおろしましたが、ジンジンとした腕を抱えながら、生まれて初めての飛行機にのり、憧れだった東京の地に降り立った興奮は、傷の痛みを忘れる程でした。
キャプテン翼の漫画のなかで、「立花兄弟がホームからホームでパス交換」をしていた、よみうりランド駅に着いたときは、漫画の世界に入った気持ちになりました。
全国大会の結果は、ベスト16で (PK負け)、相手の静岡代表、藤枝は準優勝したので、当時の【松山サッカースクール】は全国ベスト8かベスト4の力があったと自負しています…笑
この試合に、後に高校サッカーの恩師となる、南宇和の石橋智之先生が観戦にきてくれていました。後に聞きましたが、当時のことを「お山の大将」のやんちゃな子がいるなぁと、思っていたそうです。中学生になってからも、新聞配達を続け、幸いなことに僕はその後もサッカーを続けることができました。
全国には、様々な家庭環境の子どもがいます。僕は親の所得に関係なく、あるいは兄妹が進学したから「自分は親に負担をかけないように就職しようとか」子どもが親の気持ちをおもんぱかったりすることなく、自分の進みたい進路への道が開けるよう、後押しをしてあげたいと思っています。
僕が初めてアルバイトをして、買ったスパイクはヤスダの「フリート2」
1ヶ月分の、半分の支出だったけど、嬉しかったなぁ…✨
投稿者プロフィール
